Panda-Kis 2nd

ぱとのブログです。TV番組の感想はリアルタイムで見れた番組のみUPします。

映画 レインツリーの国(3回目・字幕あり)

 
  • 〜♪
  • ♪〜
この3つの音符の使い分け。正しいかはわからないけど、きっと。1つ目は流れ終わるとき。2つ目は流れ始るとき。3つ目は誰も話していないときにBGMが流れているとき。そうやって、私は解釈した。この音符があることで、私はBGMを「聴いた」。普段、何気なく聞いているBGM。もちろん、"Back Ground Music"なのだから、「聴く」ものではなく「聞く」ものなのだろう。当たり前のように流れているBGM。どちらかというと、私はBGMを「きいて」いる方だと思っていた。ちょっとしたところで流れるBGMを「きいて」、何に使われていたBGMだったか、どのシーンのBGMだったか、すぐにわかるから。でも、きいていたと思っていたことは「聴いていた」のではなく、「聞いていた」のである。今回、3つの「♪」が画面に映し出されていることで、私はBGMを無意識のうちに意識した。変な言い回しだけど、無意識のうちの意識だった。すでに2回観ているし、もっとBGMを「きいて」いるものと思っていた。でも、ほとんど「きいて」いなかった。ここで流れていたんだとか、ここで終わっていたんだとか、ここでは流れていなかったんだとか、初めて気がつくBGMがたくさんあった。以前、舞台演出でBGMを担当したことがある。演出を考え、それに合うものを必死に探して、「聴いた」。プロの方はもっともっと考えてBGMを作っているのだろう。でも、実際に流れてみると、ほとんどの人は「聞いて」いる状態である。今回、それを職としている人がいることを改めて意識した。それと同時に、「聞く」ことができること、「聴く」ことができることが、すごいことなんだと思えた。
 
  • 〔○○の音〕
BGMとはきっと別物だ。この表記が出るときは、シーンや心情、状況が変わるところだと思う。どの音でも表示されているわけではなかった。音響の仕事を特集している番組を見たことがある。BGMと同じで、流れてみると、注意して「聴いて」いる人はいないだろう。でも、その音が流れることで場面転回がされる、自然と。音響を作ることも簡単なことではない。普段「聞いて」いる音をそのまま効果音にしているわけではないことがあるからだ。この当たり前に、普段「聞いて」いる音を改めて意識した。映画を観た後、普段ならすぐに音楽をイヤホンで「きいて」しまうが、今回は音楽を「きかず」に新宿の駅まで歩いた。いろんな人の声、いろんな音、様々な音が混じり合っていた。このたくさんの音が聞こえること。当たり前だと思っていたけれど、この音が聞こえなくなったら…想像でしかないけれど、取り残された気持ちになるのだろう。もし、聞こえなくなったとしたら、聞こえないことにいずれ慣れるのだろうか。
 
  • 白い文字
邦画で日本語字幕を観たのは初めてだった。白い文字が時々見にくいときがあった。こういうとき、聴覚に障がいがある方はどうしているのだろうか。想像で読むのだろうか。それとも、スクリーンの役者の口を読むのだろうか。今回、字幕を観て、いかに普段曖昧に言葉を「聞いて」いるのかがわかった。私がきき取っていたことと違う字幕が出ていたのである。1つ目に懇親会(と言う名の合コン)で伸が言う、「俺は九官鳥やオウムと違う」というセリフだ。私は「オウム」という単語をきき取ってはいなかった。自分の中では「九官鳥とかとは違う」と言っているのだと思っていた。2つ目はミサコと飲んでいるときに伸が言う、「思うたわ」というセリフである。私は「思うてない」だと思っていた。どちらも関西弁が入る部分だから間違えて「きいて」いたのだろうか。後者に関しては逆の意味で捉えていた。正直、がっかりした。ドラマやバラエティーなどのテレビ番組でももしかしたら、聞き間違えていることがあるかもしれないし、普段の会話でも聞き間違えているのかもしれない。そう思うと、かなりショックだった。悲しくなった。私だけではなく、きっと誰しもが知らぬ間に聞き間違えている可能性があるのだ。文字だけでは気持ちは伝わらない。誤解させることもある。だけど、直接話していても100%伝わるとは限らないのだ。そう思ったとき、私はすごく悲しくなった。そして、邦画では字幕と無縁だと直接的に思っていたわけではないけれど、どこかでそう思っていた自分が恥ずかしくなった。
 
  • エンドロール中の歌詞
エンドロール中に流れるKis-My-Ft2の「最後もやっぱり君」。ここにも字幕がついていた。エンドロールにまで字幕がつくとは思っていなかった。でも、たしかに字幕は必要だなって思った。洋画では、そこまで字幕はついていなかったはずだ。でも、今回の字幕とは用途が違う。そのことを思い出させてくれた。私は、曲を初めて聴くとき、まず歌詞と曲を併せて聴く。視覚からの情報と聴覚からの情報を一致させることで、深く理解できると考えているからである。今の私はそれができる。でも、聴覚に障がいがあったらそれはできない。中学生の頃、藤木直人さんのドラマを観て、「もし見えなくなったら」、「もし聞こえなくなったら」と考えていたことがあった。漠然と考えていただけだが、結局答えは出なかった。ただ、今と同じようには生活できないということだけは、なんとなく感じていた。でも、もしかしたら100%そうではないのかもしれない。
 
  • 字幕で、初めは父の名は表示されない。
初め、父の名前は表示されず、途中から父の名前になるのだ。そういえば、初め写真が映るとき、父親の顔は反射して見えないようになっている。字幕によって気付かされたのである。原作を読み、映画も2回観ているという背景からか、初めから、父の存在をわかった状態で観ていた。しかし、初めて観る人は、父親だとは思わないのである。私がいかに普段からバックグラウンドによって、物事を進めているのかがわかった。私だけの視点ではなく、多角的な視点の必要性を再認識した。「自分がわかっている」だけではダメなのである。伝える力をつけなければならない。
 
  • 最後の2度のキス
これは、完全にやられた。3回目にして、ここで泣くとは。1回目と2回目の間の2人の笑顔が本当に本当に綺麗だった。そして、ここまで、つらつらと書いてきたが、普段から映画を観に来ている人だけではなく、障がいをかかえていて、映画館で映画を観ることを避けてきた人たちも観ることのできる映画に主演させていただいたことが、これから玉森くんにとってどれだけプラスになるのだろうか、そして、本当に貴重な映画に主演させていただいたんだと思ったら、涙が溢れた。この映画に主演できた玉森くんは幸せ者だなって思ったら、涙が溢れた。私は字幕あり・字幕なし共に観ることで、考えながら観ることがてきた。もし、この映画が別の人の主演だったら、観ていなかったかもしれない。もし、観ていなかったら、こんなに考えることもなかったかもしれない。「レインツリーの国」にであえたことが、私にとって本当に大きなことだったと今、強く思う。
 
 
さて。ここまでが、3回目の感想です。映画の真髄について、一番考えた回だったと思います。「玉森くんの主演」ということで読み始めた原作。「玉森くんの主演」ということで買った前売り券。そして、「玉森くんの主演」ということで観に行った映画。それをついて、こんなに考えるとは思ってませんでした。そして、今日が前売り券で観る最後のレインツリーの国。最後だと考えるだけで、すごく寂しかった。会場に入るとき、ポストカード渡されて、「あ、そういえば、配布されるんだった」と渡されたそのときに気付くくらいに寂しかった。別に、まだ観にくればいいことなんだけど、もともと映画をしょっちゅう観に来るわけではないので、ふらっと映画へ〜とならないからこそ、前売り券があるって、私にとってかなり大切な事項になる。初め、字幕のあるレインツリーの国を観たとき、文字と映像を観るのに慣れていないこともあって、文字も観たいし映像も観たいしで、ジレンマがあった。でも、ジレンマのおかげで、一番五感を使って、考えて観ることができたと思う。私は、この映画を通して、多くのことを考えたり、知ったりすることができた。私にとっても、とても心に残る映画になりました。レインツリーの国を映画化してくれてありがとうございました。玉森くんをキャスティングしてくれてありがとうございました。レインツリーの国に携わった方々全員に感謝しています。
 
あと1回くらい観に行けるといいなあ…。